ニューウェーブ漫画相談室

マニアック目な漫画紹介ブログです。 どういうジャンルを取り扱っているかは、『カテゴリー』の『年間漫画まとめ』を参照頂くとわかりやすいかと。

「子供」が「大人」になる条件、『ママゴト』(松田洋子)

 「大人」になるとはなんだろう。「子供」はどうすれば育つのだろう。おそらく、精神の成長について、学術的にきちんとした定義があるものだろう。しかし今回は、松田洋子の定義する「大人」になる、について語ることにしよう。

 

 主人公の映子は、過去の凄惨な経験から子供に対してトラウマを抱えている。その映子が、5歳の男の子タイジを預かることになるところから物語が始まる。初めは、タイジに対してどう接すればいいかわからなかった映子だが、タイジの素直さに触れるうちに過去の辛い経験を振り返りながら克服していき、「大人」になっていく。しかし、本作は映子が「大人」へと成長する物語ではあるが、映子は「子供」ではない(アラフォーである)。実は、この漫画には「子供」と「大人」の間に、もうひとつ段階が存在する。「大人になりきれていない大人」だ。

 

 5歳児であるタイジは「子供」の代表として描かれる。知識も経験もない分、何事も素直に受け止め、素直に吐き出す。ところが、「子供」の素直さは年を取る毎に失われていく。知識はあるがままに物事を受け止めることを邪魔するし、経験は衝動にまかせた行動をためらわせる。知識と経験により凝り固まってしまった状態が「大人になりきれていない大人」だ。では、どうすれば「大人」になれるのか。

 

 映子は過去の辛い経験から目をそむけ続けて生きてきた。しかし、タイジと生活をするうちに、それらの経験を思い出し、もう一度自分の中で考え直して現状と一緒に消化していく。トラウマになるような悲惨な体験でも、今後を生きる上での糧としていき、映子は「大人」へと成長する。知識や経験に縛られず素直に物事を受け止め行動できる、それが松田洋子の描く「大人」の姿となっている。童心を取り戻す、とも言えなくもない。

 

 映子がタイジと出会った時点では、二人は「大人になりきれていない大人」と「子供」の関係だ。自分の経験を消化できないままの映子にタイジを育てることはできない。『ママゴト』の状態となっている。物語の最後に、映子が「大人」になり『ママゴト』は終わる。「大人」と「子供」であれば、「子供」の進む道は、「大人」が知っている道のはずだ。「子供」はそんな「大人」に導かれて育っていくのだろう。

不条理ギャグ漫画におけるツッコミの立ち位置、『ふうらい姉妹』(長崎ライチ)

 各世代を代表する不条理ギャグ漫画がある。『伝染るんです。』から始まり、『GOLDEN LUCKY』が続き、『セクシーコマンドー外伝 すごいよ!!マサルさん』がジャンプというメジャー雑誌で連載されたことにより、一気に不条理ギャグが市民権を得るようになっていく。その後も、『ギャグマンガ日和』、『ボボボーボ・ボーボボ』、『日常』などなど新しい作品が次々誕生しており、どの時代でも一定の需要のあるジャンルとなっている。

 

 ところで、不条理ギャグとは何か。正確な定義は難しいのだが、ここでは便宜的に、読んでいる人間が「こんなやついるかよ!」と感じるのが普通のギャグ漫画、「なんだこいつ……」となるのが不条理ギャグ漫画、とする。不条理ギャグは読み手の思考の外からやってくる。自分の常識からかけ離れているからこそ、虚構の世界でのトリップを楽しむことが出来る。それこそ不条理ギャグの醍醐味だが、あまりに常識から離れると読者は着いていけなくなる。そこで登場するのが、「ツッコミ」という手法だ。

 

 ツッコミの役割は、常識外のトリップ真っ最中の読み手に、常識の位置を確認させることだ。常識側から繰り出されるツッコミは、読者の位置を相対的に明確にし、不条理だけが先行する事態を防ぐ。『マサルさん』が天下の週刊少年ジャンプの読者に受け入れられた要因の一つとして、フーミンというわかりやすいツッコミ役が存在し、不条理ギャグが独り歩きしなかったためだ。逆の例として、『GOLDEN LUCKY』などはツッコミが存在せず、読者はどんどん深いトリップにはまっていく(多くの人にとってはバッドトリップかもしれない)。

 

 今回取り上げる『ふうらい姉妹』は、美人姉妹がひき起こすエキセントリックな行動を描いた四コマ漫画である。一昔前の少女漫画を思わせる美麗な絵柄と不条理ギャグとのギャップもこの漫画の魅力の一つだが、注目すべきはツッコミだ。

 姉であるれい子の奇抜な行動、思考に対して、基本的には妹のしおりがツッコミを入れる。ただ、しおりに関しても、れい子よりは常識人ではあるが天然な思考の持ち主であり、話によっては姉に便乗してボケ続ける。ツッコミが入る場合と入らない場合があり、読者は常識外へ行ったり来たりを繰り返す。四コマだからこそできる、不条理ギャグの派生形だ。

この作品は、ツッコミという観点以外でも、不条理ギャグ漫画としてレベルが高い。姉妹の突飛な行動も、非常識具合が絶妙だ。不条理ギャグのニューウェーブとして、今後も注目していきたい。

少年漫画に差し込まれるアングラの世界、『幻覚ピカソ』(古屋兎丸)

 

1.    アンダーグラウンド(underground)は、地下の意。転じて地下運動、反権威主義などを通じて波及した1960年代に起こった文化・芸術運動のことを指す。アングラと略される。

Wikipediaより引用)

 

 一般的にアングラというカルチャーは、以上のように定義されるようだ。アングラの持つ暗く退廃的な雰囲気は、明るい少年漫画に相容れない様に感じられる。しかし実際には、アングラ文化に影響されるのは青年期の若者だ。少年少女の未成熟な精神は、「中二病」という言葉があるように社会に反発する方向に傾きやすい。それゆえ、少年漫画とアングラ的表現は、意外なほどに相性がいい組み合わせだ。

 

 本作は、天下の週刊少年ジャンプの増刊、ジャンプSQで連載していたことからもわかるように、まごうことなき少年漫画である。ある出来事をきっかけに、人の持つ「心の闇」を一枚の絵として描写し、その絵の中に入り込む能力を身に付けた主人公ピカソは、その能力を活かしてクラスメイトの悩みを解決していく。当初は人づきあいが苦手だったピカソだが、心の絵を通して人と触れ合ううちに、他人を理解し成長していく。ストーリー自体はまっとうな少年漫画だ。この漫画の異様な点は、まっとうな少年漫画に、表現としてアングラが差し込まれていることだ。

 

 先述した「心の闇」の絵は、少年少女の悩みが誇張して表現されており、まるで悪夢の世界をそのまま描写したようである。ある絵では巨大な兎の死骸が横たわっており、別の絵ではカッターで切り刻まれた人形が、「心の闇」として描かれる。また絵と、絵の世界に入ったピカソは全て鉛筆画となっており、画面全体から陰鬱な雰囲気が漂う。「心の闇」のシーンはアングラそのものだ。しかし、アングラが自己主張しすぎるわけではなく、あくまで少年漫画の流れの中に、演出のみの形でアングラ臭が漂う。アングラは少年少女の精神を描くためだけの道具に過ぎない。

 

 作者の古屋兎丸は、元々アングラ系の作品を多数発表してきた。絵のみでアングラの雰囲気を十分出せるのは、経験豊富な作者ならではだ。日常生活パートの繊細な絵柄から、「心の闇」パートのアングラ的絵柄、どちらも丁寧でクオリティが高い。登場人物の表情にもこだわりを感じる。最終話のピカソの表情の変化が美しい。あくまで少年漫画として、美しいラストが用意されている。


人間関係におけるインプットとアウトプット、『志乃ちゃんは自分の名前が言えない』(押見修造)

 最近の若者はコミュニケーションが苦手、という意見をどこかで耳にしたことがある。ギリギリ若者に分類されるであろう私から見ても、対人関係が苦手な人は周りに多いと感じる(私が理系だからかもしれないが……)。そんな時流もあってか、人間関係が苦手なキャラクターが主人公の漫画をたまに見かける。『おおきく振りかぶって』(ひぐちアサ)の三橋廉や、『君に届け』(椎名軽穂)の黒沼爽子などはその典型である。しかしその二作品の主題は、あくまで野球と恋愛だ。今回取り上げる『志乃ちゃん』は、コミュニケーションのある一面にスポットライトを当てた作品となっている。

 

 キャラクター配置が巧みな作品だ。主人公の大島志乃は、とある理由から頭で考えていることを上手く口に出して表現できない。そのことが理由で、高校のクラスになじめず孤立していく。その志乃の唯一の友人となるクラスメイトの加代は、臆病で自己主張ができない。二人は似た悩みを持っていることもあり、親しくなっていく。そこに割りこんでくる、クラスメイトの菊池の存在が強烈だ。菊池は、臆することなく自分の考えをすぐ口に出す。志乃と加代の持っていないものを持っている菊池というキャラクターは、対比物として物語の中で効果的に働く。その持っていないものは何か。それは、アウトプットの能力だ。

 

 コミュニケーションをおおまかに二つに分けると、インプットとアウトプットとなる。人から話を聞いて咀嚼する能力と、自分の考えをまとめて人に伝える能力。二つは全く別のものだ。上であげた三橋廉や黒沼爽子はアウトプットとインプット、どちらも苦手なように見える。相手の話の意図をくみ取れない、自分の気持ちを伝えられない。二つが混同されがちな節もある。

 

 それでは本作はどうか。インプットが苦手という描写は志乃にはない。加代が元クラスメイトにいびられている際には、空気を読んで助け舟まで出した。あくまで志乃は、アウトプットが出来ないだけなのだ。そしてそのような人間は、現実にも多いように思う。聞き上手ではあるが、自分の気持ちを相手に伝えることが出来ない。そんな人間のために描かれた作品ではないか。志乃と加代は、作品の最後にそれぞれの方法で自分の気持ちを他人に伝える。アウトプットの方法は一つでない。どんな形であれ、外に出すことに意味があるのだ。


 

『五大湖フルバースト』(西野マルタ)から考える「シリアスな笑い」の定義

 『バクマン』(大場つぐみ(原作)・小畑健(作画))にて明文化された「シリアスな笑い」という言葉。「シリアスな場面なのに笑えてしまう場面」という定義だそうだが、「笑える」というのは曖昧だ。同じ場面を見たとしても、シュールギャグだと思い笑う人もいれば、熱い場面だと感じる人もいるかもしれない。また、時代によっても感じ方は違う。結局、人によって感じ方が違うため、一概に定義は出来ないのだ。では、本作はどうだろう。

 

 ぶっ飛んだ設定だ。相撲が国技となったアメリカ、デトロイトが舞台。人間vs機械の相撲バトルが描かれる。しかし、相撲とは言っているものの、空は飛ぶわ目くらましの光線が出るわミサイルが放たれるわ、やりたい放題である。そのくせ、いちいち相撲の小ネタが挟まれる妙な世界観がある。概要を書き連ねるとギャグとしか思えない。実際にページをめくっていっても、独特の強い輪郭線で、バカバカしい設定がそのままクソ真面目に描かれる。

それでは、そこで「シリアスな笑い」が起こるのか?少なくとも、私はノーだった。何故なら、おそらくだが、作者の意図がそこにないからだ。

 

 設定が独特ではあるが、物語としては盛り上がる展開の組まれ方をしている。1冊半という短いページの中で、英雄の没落からの復活、親子の絆、絶対悪の存在など、魅力的な要素が詰まっている。先に書いたような、一見するとシュールな雰囲気で物語は進むが、絵の勢いと引きつける構成により、一気に読まされる。そこに「シリアスな笑い」などは挟む余地などない。この作品は、この上なく熱いスポーツ漫画だと気づかされる。勿論、相撲とは別のスポーツではあるが……

 

 本作の単行本は2冊分冊で、今回解説したのは上巻と下巻半分で描かれる「技の章」である。下巻の後半では、作者の四季賞投稿作品である『両国リヴァイアサン』が掲載されている。絵柄に大きな違いはあるが、相撲という題材と、ノリは同じだ。シュールな世界観がクソ真面目に描かれる。デビュー作から一貫して、作者は「シリアスな笑い」を取りに行っているわけではないのだ。熱い作品を描きたいのだ。

受け手の受け取り方は自由だ。だが、情熱を込めて描かれた作品に対しては、作者の意図通り読むことが正しい楽しみ方だろう。それが一番、作品の魅力を堪能できるはずだ。それが「シリアスな笑い」ならば、そう楽しめばいい。

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