ニューウェーブ漫画相談室

マニアック目な漫画紹介ブログです。 どういうジャンルを取り扱っているかは、『カテゴリー』の『年間漫画まとめ』を参照頂くとわかりやすいかと。

少年漫画に差し込まれるアングラの世界、『幻覚ピカソ』(古屋兎丸)

 

1.    アンダーグラウンド(underground)は、地下の意。転じて地下運動、反権威主義などを通じて波及した1960年代に起こった文化・芸術運動のことを指す。アングラと略される。

Wikipediaより引用)

 

 一般的にアングラというカルチャーは、以上のように定義されるようだ。アングラの持つ暗く退廃的な雰囲気は、明るい少年漫画に相容れない様に感じられる。しかし実際には、アングラ文化に影響されるのは青年期の若者だ。少年少女の未成熟な精神は、「中二病」という言葉があるように社会に反発する方向に傾きやすい。それゆえ、少年漫画とアングラ的表現は、意外なほどに相性がいい組み合わせだ。

 

 本作は、天下の週刊少年ジャンプの増刊、ジャンプSQで連載していたことからもわかるように、まごうことなき少年漫画である。ある出来事をきっかけに、人の持つ「心の闇」を一枚の絵として描写し、その絵の中に入り込む能力を身に付けた主人公ピカソは、その能力を活かしてクラスメイトの悩みを解決していく。当初は人づきあいが苦手だったピカソだが、心の絵を通して人と触れ合ううちに、他人を理解し成長していく。ストーリー自体はまっとうな少年漫画だ。この漫画の異様な点は、まっとうな少年漫画に、表現としてアングラが差し込まれていることだ。

 

 先述した「心の闇」の絵は、少年少女の悩みが誇張して表現されており、まるで悪夢の世界をそのまま描写したようである。ある絵では巨大な兎の死骸が横たわっており、別の絵ではカッターで切り刻まれた人形が、「心の闇」として描かれる。また絵と、絵の世界に入ったピカソは全て鉛筆画となっており、画面全体から陰鬱な雰囲気が漂う。「心の闇」のシーンはアングラそのものだ。しかし、アングラが自己主張しすぎるわけではなく、あくまで少年漫画の流れの中に、演出のみの形でアングラ臭が漂う。アングラは少年少女の精神を描くためだけの道具に過ぎない。

 

 作者の古屋兎丸は、元々アングラ系の作品を多数発表してきた。絵のみでアングラの雰囲気を十分出せるのは、経験豊富な作者ならではだ。日常生活パートの繊細な絵柄から、「心の闇」パートのアングラ的絵柄、どちらも丁寧でクオリティが高い。登場人物の表情にもこだわりを感じる。最終話のピカソの表情の変化が美しい。あくまで少年漫画として、美しいラストが用意されている。


人間関係におけるインプットとアウトプット、『志乃ちゃんは自分の名前が言えない』(押見修造)

 最近の若者はコミュニケーションが苦手、という意見をどこかで耳にしたことがある。ギリギリ若者に分類されるであろう私から見ても、対人関係が苦手な人は周りに多いと感じる(私が理系だからかもしれないが……)。そんな時流もあってか、人間関係が苦手なキャラクターが主人公の漫画をたまに見かける。『おおきく振りかぶって』(ひぐちアサ)の三橋廉や、『君に届け』(椎名軽穂)の黒沼爽子などはその典型である。しかしその二作品の主題は、あくまで野球と恋愛だ。今回取り上げる『志乃ちゃん』は、コミュニケーションのある一面にスポットライトを当てた作品となっている。

 

 キャラクター配置が巧みな作品だ。主人公の大島志乃は、とある理由から頭で考えていることを上手く口に出して表現できない。そのことが理由で、高校のクラスになじめず孤立していく。その志乃の唯一の友人となるクラスメイトの加代は、臆病で自己主張ができない。二人は似た悩みを持っていることもあり、親しくなっていく。そこに割りこんでくる、クラスメイトの菊池の存在が強烈だ。菊池は、臆することなく自分の考えをすぐ口に出す。志乃と加代の持っていないものを持っている菊池というキャラクターは、対比物として物語の中で効果的に働く。その持っていないものは何か。それは、アウトプットの能力だ。

 

 コミュニケーションをおおまかに二つに分けると、インプットとアウトプットとなる。人から話を聞いて咀嚼する能力と、自分の考えをまとめて人に伝える能力。二つは全く別のものだ。上であげた三橋廉や黒沼爽子はアウトプットとインプット、どちらも苦手なように見える。相手の話の意図をくみ取れない、自分の気持ちを伝えられない。二つが混同されがちな節もある。

 

 それでは本作はどうか。インプットが苦手という描写は志乃にはない。加代が元クラスメイトにいびられている際には、空気を読んで助け舟まで出した。あくまで志乃は、アウトプットが出来ないだけなのだ。そしてそのような人間は、現実にも多いように思う。聞き上手ではあるが、自分の気持ちを相手に伝えることが出来ない。そんな人間のために描かれた作品ではないか。志乃と加代は、作品の最後にそれぞれの方法で自分の気持ちを他人に伝える。アウトプットの方法は一つでない。どんな形であれ、外に出すことに意味があるのだ。


 

『五大湖フルバースト』(西野マルタ)から考える「シリアスな笑い」の定義

 『バクマン』(大場つぐみ(原作)・小畑健(作画))にて明文化された「シリアスな笑い」という言葉。「シリアスな場面なのに笑えてしまう場面」という定義だそうだが、「笑える」というのは曖昧だ。同じ場面を見たとしても、シュールギャグだと思い笑う人もいれば、熱い場面だと感じる人もいるかもしれない。また、時代によっても感じ方は違う。結局、人によって感じ方が違うため、一概に定義は出来ないのだ。では、本作はどうだろう。

 

 ぶっ飛んだ設定だ。相撲が国技となったアメリカ、デトロイトが舞台。人間vs機械の相撲バトルが描かれる。しかし、相撲とは言っているものの、空は飛ぶわ目くらましの光線が出るわミサイルが放たれるわ、やりたい放題である。そのくせ、いちいち相撲の小ネタが挟まれる妙な世界観がある。概要を書き連ねるとギャグとしか思えない。実際にページをめくっていっても、独特の強い輪郭線で、バカバカしい設定がそのままクソ真面目に描かれる。

それでは、そこで「シリアスな笑い」が起こるのか?少なくとも、私はノーだった。何故なら、おそらくだが、作者の意図がそこにないからだ。

 

 設定が独特ではあるが、物語としては盛り上がる展開の組まれ方をしている。1冊半という短いページの中で、英雄の没落からの復活、親子の絆、絶対悪の存在など、魅力的な要素が詰まっている。先に書いたような、一見するとシュールな雰囲気で物語は進むが、絵の勢いと引きつける構成により、一気に読まされる。そこに「シリアスな笑い」などは挟む余地などない。この作品は、この上なく熱いスポーツ漫画だと気づかされる。勿論、相撲とは別のスポーツではあるが……

 

 本作の単行本は2冊分冊で、今回解説したのは上巻と下巻半分で描かれる「技の章」である。下巻の後半では、作者の四季賞投稿作品である『両国リヴァイアサン』が掲載されている。絵柄に大きな違いはあるが、相撲という題材と、ノリは同じだ。シュールな世界観がクソ真面目に描かれる。デビュー作から一貫して、作者は「シリアスな笑い」を取りに行っているわけではないのだ。熱い作品を描きたいのだ。

受け手の受け取り方は自由だ。だが、情熱を込めて描かれた作品に対しては、作者の意図通り読むことが正しい楽しみ方だろう。それが一番、作品の魅力を堪能できるはずだ。それが「シリアスな笑い」ならば、そう楽しめばいい。

二人きりで、シンプルな世界、『オンノジ』(施川ユウキ)



 簡潔な物語が好きだ。素晴らしい一つのテーマがあるのならば、物語にごちゃごちゃとした装飾は必要ない。そのテーマを生かすためだけにストーリーは構成されるべきだ。無理に他の要素を詰め込もうとすると、受け手の意識が逸れて物語全体の印象が薄まってしまう。テーマがきっちり一貫した作品は、最初から最後まで物語に集中できてすっきり読むことができる。そういう意味では本作のテーマは非常にシンプルでわかりやすい。「二人きりの世界」だ。

 

 主人公のミヤコは、物語の冒頭から他の生物が全くいない街をさまよっている。人を探してさまよっているうちに、一匹のフラミンゴ「オンノジ」と出会う。そのフラミンゴは人の言葉を喋り、自分はもともと人間だったと話す。その出会いがあり、ミヤコとオンノジはたった二人の人類として、無人の世界で寄り添って生きていく。まず、ガールミーツフラミンゴという発想の時点で勝っている感はある。しかしそれより何より、不純物を排除した舞台の作り方が素晴らしい。

 

 基本的には四コマ漫画形式で作者独特のシュールギャグが展開されていく。しかし、各話の最後の四コマには、毎回シリアスな話が配置されている。シュールギャグパートではお気楽な二人が、悲壮なほどに世界の現実を突きつけられる。ただ、その最後のコマでは「二人である」ことが描かれる。希望のない世界で自分が一人ではないという確認。

そのような流れは物語終了まで続く。一定のリズムで話は進んでいく。わき道にそれず無駄な設定や展開はない。必要最低限どころか必要以上に物語の装置は削られている。

 

 物語途中でミヤコが記憶喪失であることも明かされるが、その設定は生かされない。それはささいなことなのだ。無人街の設定も突き詰めれば色々と現実的に苦しいところはある。ただ、そこも全く問題ではない。オンノジは元人間のフラミンゴだが、フラミンゴである理由は明記されない。なんでもいいのだ。サルだろうがトカゲだろうが。作品で描きたかったのは「二人きりの世界」。全ての舞台装置は、寄り添いながら生きる二人を描くためだけに構成されている。シンプルに、一貫して一つのテーマを描き切った作品だと思う。

他人の妄想、覗いてみよう、『ひきだしにテラリウム』(九井諒子)

 私の持論だが、全ての創作物は作った人間の思想や人格が少なからず反映されているものだと考えている。そのため創作物に触れるという行為は、その製作者に触れる事に近い。製作者の考えている事を共有すること、それが創作物に触れる意義である。

 

 『竜の学校は山の上』、『竜のかわいい七つの子』で人外との交流を日常的に描いて話題を呼んだ九井諒子が、2ページから多くて10ページ前後の短編、ショートショートを描く短編集が本作である。先に挙げた二つの短編集でも遺憾無く発揮された九井の特異な妄想力は、ショートショートという「使い捨て」の場で際限なく膨れ上がったように感じた。日常におけるどんな些細な妄想であってもネタになるのだ。そしてそれは、恐らくだが、九井の世界の見方が我々と違うからだ。

 

 最初に述べた、創作物は創作者の思想の写し鏡である、という持論の話に戻るが、そう考えると創作物の楽しみ方は二通りに分類出来る。共感と発見である。自分も同じ妄想をしていて、同じような妄想から作られた作品に触れる、これが共感。自分が考えもしなかった妄想から作られた創作物に触れる、これが発見。どちらも創作物の楽しみ方として正しい。

 

 では本作はどうか。本作中のショートショートの題材は、ごく日常的な物事となっている。未来の人間から見ると我々の姿はどう見える?ペットとして「飼われている側」って幸福なの?想像上の生き物ってどんな味?など。それらの疑問が九井独特の解釈で漫画へと昇華される。九井の妄想は全てどこか斜め上だ。我々では考え付かないような妄想への答えが描かれ、我々はそのギャップを発見し、共有することを楽しむ。絵柄や表現が非常に巧みな九井の漫画力も合間見会って、突拍子もない妄想をすんなり受け入れる事が出来る。

 

 通常の創作物は、創作者の一つの思想を深く掘りこむ。本作は33編の妄想が詰め込まれている。どれもこれも我々の持っていなかった、新しい妄想の視点を与えてくれる。創作の本質は、相手思想の自分への取り込みにあるのではないだろうか。

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