私の持論だが、全ての創作物は作った人間の思想や人格が少なからず反映されているものだと考えている。そのため創作物に触れるという行為は、その製作者に触れる事に近い。製作者の考えている事を共有すること、それが創作物に触れる意義である。
『竜の学校は山の上』、『竜のかわいい七つの子』で人外との交流を日常的に描いて話題を呼んだ九井諒子が、2ページから多くて10ページ前後の短編、ショートショートを描く短編集が本作である。先に挙げた二つの短編集でも遺憾無く発揮された九井の特異な妄想力は、ショートショートという「使い捨て」の場で際限なく膨れ上がったように感じた。日常におけるどんな些細な妄想であってもネタになるのだ。そしてそれは、恐らくだが、九井の世界の見方が我々と違うからだ。
最初に述べた、創作物は創作者の思想の写し鏡である、という持論の話に戻るが、そう考えると創作物の楽しみ方は二通りに分類出来る。共感と発見である。自分も同じ妄想をしていて、同じような妄想から作られた作品に触れる、これが共感。自分が考えもしなかった妄想から作られた創作物に触れる、これが発見。どちらも創作物の楽しみ方として正しい。
では本作はどうか。本作中のショートショートの題材は、ごく日常的な物事となっている。未来の人間から見ると我々の姿はどう見える?ペットとして「飼われている側」って幸福なの?想像上の生き物ってどんな味?など。それらの疑問が九井独特の解釈で漫画へと昇華される。九井の妄想は全てどこか斜め上だ。我々では考え付かないような妄想への答えが描かれ、我々はそのギャップを発見し、共有することを楽しむ。絵柄や表現が非常に巧みな九井の漫画力も合間見会って、突拍子もない妄想をすんなり受け入れる事が出来る。
通常の創作物は、創作者の一つの思想を深く掘りこむ。本作は33編の妄想が詰め込まれている。どれもこれも我々の持っていなかった、新しい妄想の視点を与えてくれる。創作の本質は、相手思想の自分への取り込みにあるのではないだろうか。