最近の若者はコミュニケーションが苦手、という意見をどこかで耳にしたことがある。ギリギリ若者に分類されるであろう私から見ても、対人関係が苦手な人は周りに多いと感じる(私が理系だからかもしれないが……)。そんな時流もあってか、人間関係が苦手なキャラクターが主人公の漫画をたまに見かける。『おおきく振りかぶって』(ひぐちアサ)の三橋廉や、『君に届け』(椎名軽穂)の黒沼爽子などはその典型である。しかしその二作品の主題は、あくまで野球と恋愛だ。今回取り上げる『志乃ちゃん』は、コミュニケーションのある一面にスポットライトを当てた作品となっている。

 

 キャラクター配置が巧みな作品だ。主人公の大島志乃は、とある理由から頭で考えていることを上手く口に出して表現できない。そのことが理由で、高校のクラスになじめず孤立していく。その志乃の唯一の友人となるクラスメイトの加代は、臆病で自己主張ができない。二人は似た悩みを持っていることもあり、親しくなっていく。そこに割りこんでくる、クラスメイトの菊池の存在が強烈だ。菊池は、臆することなく自分の考えをすぐ口に出す。志乃と加代の持っていないものを持っている菊池というキャラクターは、対比物として物語の中で効果的に働く。その持っていないものは何か。それは、アウトプットの能力だ。

 

 コミュニケーションをおおまかに二つに分けると、インプットとアウトプットとなる。人から話を聞いて咀嚼する能力と、自分の考えをまとめて人に伝える能力。二つは全く別のものだ。上であげた三橋廉や黒沼爽子はアウトプットとインプット、どちらも苦手なように見える。相手の話の意図をくみ取れない、自分の気持ちを伝えられない。二つが混同されがちな節もある。

 

 それでは本作はどうか。インプットが苦手という描写は志乃にはない。加代が元クラスメイトにいびられている際には、空気を読んで助け舟まで出した。あくまで志乃は、アウトプットが出来ないだけなのだ。そしてそのような人間は、現実にも多いように思う。聞き上手ではあるが、自分の気持ちを相手に伝えることが出来ない。そんな人間のために描かれた作品ではないか。志乃と加代は、作品の最後にそれぞれの方法で自分の気持ちを他人に伝える。アウトプットの方法は一つでない。どんな形であれ、外に出すことに意味があるのだ。