漫画の構成の中で、個性的なキャラクターを描くことに主眼が置かれておりストーリーがなおざりな漫画を、私は勝手に「キャラ漫画」と読んでいる。「日常系」という漫画分類に近いが、それよりもさらにキャラクターを描くことに特化した作品群の事を指している。『WORKING!』などが分かりやすい例だ。上ではストーリーがなおざりとは書いたがネガティブな側面ばかりでなく、魅力的なキャラクターを描くために他の要素を排除した一つの表現形態である。そして、その「キャラ漫画」を20年以上、四大少年誌で描き続けている漫画家がいる。西森博之という人だ。

 

 『今日から俺は!』や『天使な小生意気』の作者と言えば伝わりやすいかもしれない。根強い固定ファンの多い漫画家だ。その理由として、安定感がある、独特の空気感、など色々と言及されるが、その全てを生み出している最も大きな要素は「強いキャラクター造形」にある。強いと言っても物理的に強いという話ではない(多くの西森キャラは物理的にも強いが)。性格、信念、思考回路などキャラクターを形作る要素の一つ一つが作りこまれており、個性的、印象的で「強い」。そのため、舞台を作り(多くの西森漫画では高校、加えてヤンキーの多い学校)、そこに各キャラクターを放り込めば、個性の強い登場人物達は互いに干渉しあい作品が動く。特別な設定や世界観、大それた事件が起こらずとも、キャラクターの魅力だけで面白い漫画になっていく。

しかしながら、キャラクターが作品を作っていく事は珍しい事ではない。だからこそ、私は「キャラ漫画」という言葉を使う。では、西森漫画は他のキャラ漫画と何が違うか。繰り返しになるが、「キャラ漫画」ではストーリーは排除される。しかし西森漫画においては、キャラクターである主人公が、自分を魅せるための物語を自ら作り出している。

 

 今回取り上げている『道士郎でござる』を例に挙げよう。主人公はネバダ州から来た武士である桐柳道士郎だ。ネバダ州育ちなのに日本の象徴である武士であろうと行動しており、「武士とはそういうものだ」という言葉とともに武士的な行動を取り続ける。キャラクターの造形を書きだしただけでも強烈に個性的であり、その個性は周りの登場人物にも影響を与えていく。圧倒的な個性の前に蹂躙されるような勢いで周りを巻き込んでいき、物語は二転三転する。結果として、最も道士郎の個性を活かすためのストーリーが、自動的に、道士郎本人により作り出される。もし舞台設定や周りの人物が変わろうとも、道士郎は自分自身の個性で物語を作っていくだろう。自分を個性を自ら引き出すなどということは、そんじょそこらの「キャラ漫画」のキャラクターには出来ない芸当だ。それほどまでに、西森漫画の主人公達は「強い」個性を持っている。

 西森漫画が唐突に終わるという印象が強いのもそのためかもしれない。物語の主導権は作者にではなく、物語の主人公にある。幕を引くタイミングを決めるのもキャラクター自身なのだろう。